善慶寺の紹介

 

宗旨:浄土真宗

宗派:真宗大谷派

本山:真宗本廟(東本願寺)

本尊:阿弥陀如来

山号:国府山

 

建造物

本 堂:明治24年の濃尾大震災により旧本堂は倒壊、3年ほど後に再建されるも、

    間もなく明治29年大火によりまたも焼失。

    その後ご門徒方の篤いご信心に支えらえ、明治35年再々建され現在に至る。

 

 庫 裡:本堂同様、旧庫裡は明治時代に 震災による倒壊と大火による焼失の為、

    二度再建された。

    現在の庫裡は、平成8年10月 善慶寺開創五百年御遠忌法要の際に新築されたもの。

 

 山 門:前述のように寺の堂宇(本堂・庫裡)は、明治時代に二度の被災に遭うも、

    山門は唯一これらを免れた。

    しかし近年老朽化が激しく安全を考慮し平成27年に取り壊し。

    翌28年にほぼ同じ大きさや様式で現在の山門が新築された。

 

鐘楼堂:昭和11年11月建立。その際の梵鐘は第二次世界大戦中に供出。

    現在の梵鐘は 昭和23年11月に新たに設けられたもの。

 

水 屋:昭和11年11月、鐘楼堂と同時に建立。

 

納骨堂:平成19年建立。(詳細

 

 

由来草創の由来は不伝とされているが、当寺に現存する絵像(絹本著色阿弥陀如来像)の裏書が寺歴を物語る。

それによれば、当寺は、文亀元年(1501年)に本願寺第9世実如上人より阿弥陀如来絵像を下附されている。 この時点で三河の上宮寺(岡崎市佐々木町)の門徒であったことが確認できる。ただ、寺号・坊号があったか道場であったかは定かではない。
又、万治4年(1661年)に本願寺第14世琢如上人より下附された蓮如上人真影の裏書によれば、上宮寺末の正福寺(一宮市大和町苅安賀)の門徒であり、善慶寺の寺号を得ていたことが知られる。

天正19年(1591年)の上宮寺尊裕によって作成された「上宮寺末寺帳」には、「尾州正福寺末寺之分・・・一.いしはし村法蔵坊」とあることから「法蔵坊」が後に「善慶寺」の寺号を得たものと考えられる。

当時の所在する愛知県稲沢市石橋は古文書によると、織田信長の時代は12戸、江戸時代後期には68戸であったと伝えられる。集落内を美濃街道が通り、かつては往来も多く、善慶寺は掛所まわりの寺として栄えた。
掛所とは、真宗大谷派の本山の地方別院を指し、掛所まわりとは、別院から毎年「御輪番」が関係寺院に派遣され門信徒に本山からの御親書の趣旨を伝える行事のことである。

 

沿革

「由来」の項で述べたように、草創に関しては定かではない点が多い。さらに明治29年2月の火災により山門を除く堂宇が全焼し、沿革を物語る文献等は焼失してしまったと考えられる為、現存する資料は殆どなく、沿革についてもその殆どは不明である。以下文献の残る近年を中心に記載する。

1501(文亀元年) 初代 釋詢末 寂
ーーーこの間の記録は火災により焼失ーーー
1891(明治24年) 濃尾大震災により堂宇倒壊
1894(明治27年頃) 堂宇概ね再建
1896(明治29年) 再建後の堂宇 火災により全焼(山門を除く)
1902(明治35年) 堂宇 再々建
1904(明治37年) 15代 願慧院釋霊昇 寂
1922(大正11年) 16代 石梁院釋祐信 寂
1949(昭和24年) 17代 椿年院釋餘祐 寂
1972(昭和47年) 宗祖七百回御遠忌法要 - 書院新築、本堂屋根瓦葺せ換え   

1996(平成8年)

 

開創五百年御遠忌法要 - 庫裡、法中玄関等新築

19代 釋昭信が住職継承、現在に至る

2004(平成16年) 18代 碩年院釋石梁 寂
2007(平成19年) 納骨堂「一如院」新築
   

文化財

稲沢市指定文化財

「絹本著色阿弥陀如来像」 縦86.6cm、横36.2cm

稲沢市史に紛失したと紹介されていたこの掛軸は、平成8年庫裡新築に伴い本堂を整理した時に発見された。 裏書きにより文亀元年(1501年)本願寺第9世実如上人から下附されたものとされている。

本図と同様の方便法身尊形の画像は市内の多くの真宗寺院に残っているが、当市の地名が残るもののうち、年号のわかるものとしては、最古のものである。

 

長年行方不明になっていた際の保管状態が悪かったこともあり 劣化が激しかった為、市の補助も受け京都国立博物館で約1年をかけ修復され、新たな姿となって平成23年3月 当寺に収められた。

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